1 未生大意
自然の草木というものは一般的には、情もなく心もなく非情無心のものとされている。しかし風や雨、雪や霜などの自然の影響を人よりも素直に受ける。山谷水陸と至るところに生じ、日・月という太陽と月の両光の恵みをふんだんに受けて、草木は四季それぞれの姿をもつ。我々は、草花が早く咲かないかと待ちこがれ、花が散っていくのを惜しむ。そして風雅ある花の姿に心をとらえられる。このように草木は、造化自然の働きを敏感に、且つ素直に受け入れるものである。無形のものより有形のものに変化することを「造」といい、また有形のものより無形のものに変化するを「化」というが、この「造化」という自然の大きな働きは常に変化して止むことはない。そして、その自然の働きに我々は、美という感動を知るのであろう。
ただ、この自然の姿を未生流挿花として、花形という一瓶の姿に置き換える意義はどこにあるのだろうか。自然にある姿こそが正しい姿で、そこにこそ本来の美があるのではないのか。その答えとして、草木というものは「地気の濁り」というものを自然に持っているものであるが、その「地気の濁り」を取り去り、清らかな姿にするところに未生流挿花としての意義がある。この天と地という概念が生じた時、清い気は昇華・上昇して「天」となったが、いっぽう濁った気は「地」に下降したという。よってこの地上には「地気の濁り」があるといわれている。そのため草木は塵芥清濁の区別なく地上に生じ、例えば未生流挿花で禁じられ、忌み嫌われる禁忌(本来あるべきではないもの。美とはいえないもの。)の姿を持つものもある。故に草木の濁りともいえる禁忌をなくして、清潔なものにするところに未生流挿花の意義があるのだ。醜美を兼ね備えた自然が正しいものではないと言っているわけではなく、人をもてなすときには、美なる草木でもって行い、また自身の賞美の花とする時には、本来あるべきではない内にあるこころを、草木の美なるものでもって浄化するのである。後に詳細を述べるが、「三才の位」を備え、「陰陽のかよい」をもって、「虚実の理」に基づき「和合」を整える。これが未生自然の花なのである。
人を始め鳥獣虫魚に至るまで、「情」をもつ有情の動物は胎内でひとたび形を成したならば、生気がみちて魂が内に宿るものである。故にこれを断ってしまえば「気」は絶え、魂は去って再び生気を戻すことはない。しかし一概にはいえないものの、草木は一般的には非情無心のものとされ、「気」は動物と違って、内に留まることなく外皮と中の木部との間を通い、これを伐ったとしても生気が尽きることはない。つまり、草木の魂は、その内なるところを自在に動き回っているものと解釈できよう。また、この草木の生気を養うには「水」と「火」でもってこれを保つものである。伐った草木を土によって養ったとしても、それならばむしろ伐らないほうがましであり、よって未生流挿花としては土で草木を養うことはない。
天地にあるふたつの対極する大きな動きである「陰と陽」「動と静」また「盛と衰」というようなものは、「水火寒暖」の往来によって生じるものである。性気の盛んな時は暖となって動く。これを「陽・陽中陽」という。また性気の静かなる時は寒となって動かない。これが「陰・陰中陰」である。暖が究まると寒の兆しを含んで動かず、すなわち陰を含んだ陽の状態「陽中陰」となる。そして一方で、寒が究まると暖の兆しを含んで動く、すなわち陽を含んだ陰の状態である「陰中陽」となる。
つまり万物はすべて「陰陽寒暖」という、二元対立する理に応じて常に変化するものである。このことをよく理解し、草木のそれぞれがもつ本性に従って「水」と「火」でもってこれを養うのである。草木の生まれてきた造化自然の生態というものを深く見極め、「陰陽消長の理」を守り、未生流の花矩として移すことが大切であるといえる。
天地という概念が未だ分かれず(天地未分以前)、我々や草木を始めとする万物が未だ形となって現れる前(父母未生以前)は、根源的・一元的な世界であった。その一元的なものから、「陰陽」という二元対立の概念が生じるに至って、そしてまた「造化」という様々な変化が繰り返され、地上にあるもの万物全てのものが生じていった。未生挿花における未生自然の花矩とは、未だ生じざる真理「未生」という「体」と、そして「自然」という働きの「用」という、体用相応した姿を追求するものである。