10 三才の事
 未生流の花型は、天円と地方の和合をとり、そこから割り出された縦横の二等辺三角形鱗形を基本とすると前にも述べた。草木は各々に形が異なり、そして四季折々にその姿は移り変わる。しかし「素よりの本性」というものを、みな同じように持っているものである。この「素よりの本性」とは、万物が未だ生じる前の未生のもの、すなわち無限の本質を現す「天円」であるといえる。この本質を神道では神、仏教では仏、儒道では明徳、そして老子は道という言葉に置き換えている。万物また草木という生あるものは全て、この無限の本質・一元の生命より生じたものなのである。この「素よりの本性」に従って、天円地方和合の花型の中に収め、そして草木各々の「出生」に応じて花を挿ける。このように、草木の「出生」である現象と、「素よりの本性」である本質という、この両極なるものを基本として未生挿花は成り立っている。陰陽和合・虚実の理をわきまえて花を挿けることに、未生流挿花の本意があるのだ。
 よって草木の「出生」のみが正しいと考え、虚実という変化の道理を知ることがなければ挿花の本意を失うことにもなる。人も人倫の教えがなければ、例え美しいものをまとっても愚かなだけであり、人も草木も、虚である外観の美と、実である内なる理念が調和されてこそ真の姿があるのである。草木の姿を整えて風流に花瓶に移すことは「虚」であり、一方その出生に従うことは「実」である。「虚」と「実」の一方にのみ偏るのでなく、「虚実等分」にこそ挿花の真理がある。花を挿ける時には、草木と自分が同じもの、すなわち「天円」という一つのものから生じたという本質に立ち戻り、草木と我同体になって挿ける。地上にあるものは万物すべて、本質はひとつであることを感じることが大切なことである。
 なお、天には「運動の才」があり、地には「生成の才」が、また人には「考慮の才」がある。この天・地・人がそれぞれにもつ特性であるところの、三才の霊妙を備えてこそ未生流挿花の道がある。草木は非情無心のものとされているが、天道の教えに背くことはなく、四季寒暖の恵みに素直に従って生じるものである。人も通らないような山奥であっても、咲く時節になれば咲き、また散る時候になれば散っていく。道端の草木は往来する人や馬に踏まれようとも、怒の気を持つことなく花咲いて、人のこころを和ましてくれる。生き物は日々、草木を食して体を養い、また諸病を治すのにも草木をもってする。草木というものは、天に素直に従う貴いものであるといえる。そのため神仏を祭るには、麗しい花を奉げるのである。「地気の濁り」である禁忌の箇所を取り除き、草木を清浄なものとする。そして万物の形につながる「天円地方の和合」より成る、未生流の花矩でもって挿花の姿に移しとるのである。