12 原一旋転の事
「原一旋転」とは一なるものを原初にたづねて旋転する。つまり万物の一なる本質に近づくことを意味する。華道未生流を学ぶにあたっては、花を挿けることを単に目の前の慰み、表象的なものとのみ捉えるのではなく、草木の出生を理解し、その内奥にある本質とは何かを一心に考えることが肝要なのである。
草木は春夏秋冬、四時の陰陽消長、さらに寒暖の季節に応じて、五行の気を等分に受けて生じたものであるため、私心はなく天の道に正直に従うものである。この点においては、活物(生き物)の主であるとされる人よりも優れているということができる。よって、この天地自然に従って生じた草木を伐って神仏に献じる、また大礼の際に用いるときは、東西和合・虚実等分の法格を備えて草花の姿を整えて挿けなければならない。
草木は非情無心であっても、天地より与えられた「本来の性」に従って生じるものである。この草木と深く接することで、天地自然の真なるものを感じとり、万物自然の道理、また神儒仏の三道の尊さというものを理解することができる。この意義を理解して花を愛するときに初めて、自然と本心となり、我と草木が同性になれるのだ。草木と同性になれば、すなわち神仏と同体になることができる。花を学ぶことは、無益の慰みではなく、万物の本質を追求することにつながるものである。
四方の本情に従って、草花が落花落葉し、また枯木枯葉の姿となるのを人は愛でる。花は満開となった後に散り、葉は土の色に戻って枯れ散る。このような落花落葉・枯木枯葉を挿け花として床に移すことは、もともとの「出生」の色を失い、土の如き色に変化した衰えのあるものであり、よってこれを尊客の饗応などに用いてもよいのかという疑問がある。しかしそうではないのだ。万物というものは全て土に帰るということが自然の道理であって、落花落葉・枯木枯葉の景色を愛で、この姿から何か大切なものを感じとることが肝要なのである。それ故に、「虚実和合」の法格を備えて、花葉枝の禁忌の箇所のみ取り去って、生々の気を全体に満ちさせるときは、麗しく最上のものとなる。自然が刻々と変化し、原初にたづねて旋転していく様を感じさせる草花こそ、我々が求める花ではないだろうか。