14 一花一葉 一花三葉の事
 花一輪、葉一枚で構成する一花一葉の事に関して述べるものとする。この一花一葉を挿けるにあたって、一輪の花は莟のものでなく開のものでもない。また一葉も日裏でなく日表でもない。いわゆる、莟や開、裏や表というような相対的な関係を超えたところにある真に大切なものを感じ捉えたものである。それは視覚における現実というものが生じる前のものなのか、それともその行き着く先のものなのかは解るはずもない。ただ未生というものを感じることしかできない。一花一葉は如々無心であって、死でもなく活でもなく、静でもなく動でもなく、すなわち空である。空は煩悩を取り去った無心となったときに、ようやく生じるものである。
 次に「一花三葉の心得」として、葉組や菊・椿などを扱って挿ける場合、花一輪に対して葉を三枚使うのが定法である。一という太極から二という両儀に変化し、万物を構成する天・地・人という三才が定まっても、人が声を発することがなければ、このような天地という概念も生じることはない。この人の声とは認識することであり、これは四つ目であるといえる。一が生じて二となり三に通じ、そしてまた一に戻っていく。一日も夜の子の刻・十二時に一陽が生じ、丑の刻・二時には陽が漸長し、そして寅の刻・四時に陽が確かなものとして定まる。しかし、それでも未だ明るくはない。ようやく明るくなるのは、四つ目の卯の刻・六時である。このように、天地自然というものは三が定まることがなければ、次の展開の花を生じことはないのである。よって三葉一花の心得として、一花三葉の割合よりも葉の数が多いのは構わないが、その割合よりも葉の数が少ないのはよくないものとする。