3 虚実
未生流に「虚実」「虚実等分」という重要なフレーズがある。「虚実」の「虚」とは生命の空虚であって、人工的に創られた花矩を現す。また「実」は生命の充実であり、草木自然の出生を意味する。この虚実が等分にあることを示す「虚実等分」とはどのような状態を現すのだろうか。それは、草木の出生である「実」に従う一方で、不要の花・葉を取り、枝をため姿を整え、花矩という「虚」を備えて花瓶に移す。そして、花の姿に「虚」と「実」の両極を備える。これが未生流挿花の「虚実等分」の理である。虚実文質彬々たる処に万物の源があるのであって、虚実と文質(外見の美と実質)が調和しているところに美の本質を求めるのである。
花矩は「虚」であるが、天地人の三才を備えた花矩は万物の根源を意味するもので、すなわち「実」であると言う事も出来る。刈った草木は、地より引き出した時点で「虚」となり、その草木を「実」である花矩に挿けた時には、天地人三才の霊妙を備えて「実」に帰るのである。虚のものが実に成る。これを「虚実」という。そしてまた、草木が挿花として生気充実した「実」となったところで、この草木は花矩として構図という「虚」に再び変化する。実のものが虚となる。これを「実虚」という。
この「虚実」「実虚」の変化は天地自然の万物流転の流れでもある。自然の下でも一枝・一葉・一花に「虚実」があるといえる。自然そのままの姿「実」にある草木も、環境の変化に伴って「虚」に変化する。同じ姿で数百瓶を挿けたとしても、同じ形とならないのはこの「虚実」のふたつをもって未生花矩としているからである。
挿花の姿一体に「虚実」を備える。すなわち、自然にある「実」の草木を伐って、縦横の三角形の鱗形の法格を備え、また花葉の不用なところをさばき、真っ直ぐなるをため曲げ、根元を一本に収めて挿けたものは「虚」である。そして、考慮の才があるとされる人が花の美を感じ、その様々な想いが挿入された時に、また「実」に帰るのである。
無形のものが有形のものに変化するを「造」、いっぽう有形のものが無形に変化する「化」という。この「造化」の働きによって物事が変化しても、その本質は不変である。「虚実」もこの「造化」と同じであるといえる。すなわち、虚々実々変化していったとしても、未生自然の真理・本質から離れることはないのである。春に花や草木が生じる様は「造」、また冬に至って落花落草する様は「化」である。万物は「造」があって「化」があるもので、また逆も然りである。
人体は頭を上にもって成長し、鳥類獣類は頭を横にして成長する。草木は頭を下にして上に成長していく。先ず、人において述べると、腹が表で背中が裏と一般的に考えがちであるが、実はその逆なのである。腹は裏であり、背中は表である。人間は生まれる前は、胎内で腹(裏)を内として、背中(表)を外としている。しかし生まれてからは腹(裏)を正面に、背中(表)を後ろにする。すなわち人間は裏を表とし、表を裏として生活しているのである。左前を右といい、右前を左というのと同様に、陰陽・虚実が変化しているのである。虚実文質彬々たるところ「用」を成すところ、つまり機能を司るところは裏であって虚である。人も背中は「実」にして表、いっぽう腹は「虚」にして裏である。このように「用」を成す裏を表とするのは「虚実」の働きである。人は虚を正面にして、実を中に含んで生きているのである。
しかし、鳥類獣類は生まれたままの姿、つまり腹(裏)を内にしたまま生きていく。鳥類獣類は表裏の変化がなく、表は表であって、裏は裏としている。つまり「虚実」の変化が少なく、「実」である本能に従っているのである。この様は「実虚」、つまり実の本能のほうが前面にくる状態であるといえる。
また、花は人間と同様に、花の日表(裏)を下にして、日裏(表)を上にして成長する。開いた花の表としているところは、莟の時は日の当たらない内側、つまり日裏である。逆に莟の状態の時に日に当たる外側は日表なのである。花が開けば日表が裏となり、日裏が表となる。巻いて生じる葉も内を表にし、外を裏にしている。このように草木も人間と同じく、自然と「虚実の通い」を備えているのである。