14 白蓮一輪 挿け方
泥の中に成育する蓮であるが、そのような中にあっても泥に染まることなく清浄な姿をもつ蓮は、諸仏の座するところとされ清い花として常に尊ばれてきた。蓮の花は荷華、また蓮の葉は荷葉ともいい、荷は蓮のことを指すものである。「蓮の出生は、荷葉といって、二葉一花を生じても、一葉は浮葉となって、すなわち水上には一花一葉を生じる。」と伝書にあるように、二葉の内の一葉は浮き葉となって水上に留まり根元を守り、そしてもう一葉は花と共に空中に伸び上がって花を守る。従って水上より上に見えるのは一花一葉である。この自然界にあって、一花一葉の出生をもつものは蓮だけである。
この蓮を挿けるときには台付きの広口を用いる。先ず定法の主株のところへ、大葉一枚を挿け、これに花を一輪だけ添えて挿ける。花は開花のものであれば葉よりも高く使い、また莟であれば葉よりも低く使って挿ける。この扱いは蓮の出生に沿ったものである。
次に半開の葉と巻葉を、これに添えて姿よく挿ける。本来この葉にも花があるはずであるが、半開・巻葉の状態では花は未だ水上には生じていない状態であるものとして、この葉に対する花を挿けることはない。またそれより魚道を分けて、浮き葉を大小二枚使って挿け蓮の出生の景色を移しとる。
このように挿けた蓮の一花を愛でて、過去・現在・未来の三世というものを明らかにするのである。つまり花は現世にして、その中に莟という過去の姿があり、又その中に蓮肉つまり果肉・種子があって未来の姿を含む。この蓮の一花という現在の姿を篤と見てとり、そして目前に見ることは出来ない莟や蓮肉という過去と未来を心眼でもって感じとるのである。
このように、現世に過去・現在・未来という三世が備わっているものは蓮以外にはないといえる。開花を現在と、莟を未来と、蓮台を過去と説く者がいるが、これは誤りである。開花は開いた花の現在、そして莟は莟の現在、また蓮台は蓮台の現在である。目の前にある厳然と在るものは現在であり、心眼をもって対象の奥にまで深く眼を向けてこそ、ようやく過去や未来が見えてくるものである。時間の概念を心眼で捉えて、蓮の一花の奥に潜む過去や未来を心眼でもって感じ取る。これが未生でいうところの、蓮の三世の挿け方である。
仏の教えは平等を説き、よって過去・現在・未来を問わず天地万物というものは時空・方位・大小・多少に関わらないものであって、また極楽浄土には過去・現在・未来の区別がない。時空を超越した姿を持つとされる蓮は、浄土の世界を象徴した花ともなっている。そしてそこでは観音様が蓮の花を持って出迎え、それぞれの魂は蓮の中に生れおちる。一人一人の罪業や善根により、この蓮の花が開く期間の長短が異なるともいわれている。
未生流の「体」は、天地の間にあって動かない万物一体の体である。そして「用」は四時に移り変わり千変万化して、また一なる体に帰っていく働きである。この体つまり万物の根元である「太極」が生じる前にあった「未生以前」の理を知り、草木を愛するこころを知る。未生流挿花は単に花を美しく挿けるだけのものではない。万物の根元にある最も大切なものは何かと模索する事、そしてまたそれを感じることに、花を挿ける意味があるといえよう。