1a 元旦の花
「五節句」の一つである一月一日「元旦」のときには、「元旦の節会」が行なわれた。元旦の節会とは、元日の朝賀の後に天皇が正殿である紫宸殿において、文武もろもろの役人に宴を賜る儀式のことである。この元旦の節会では、新年の会につながる三献の儀などが行なわれた。
この正月一日の「元旦の節会」と、正月七日の「白馬節会(あおうまのせちえ)」、そして正月十四・十六日の「踏歌の節会(とうかのせちえ)」の三つが「三節会」とされている。正月七日、この日に白馬をみると一年中の邪気を払うという故事より、天皇の御前に白馬を引き回し、天皇が群臣に宴を賜る儀式を「白馬節会」という。また、正月十四・十六日に国家安泰を祈念して歌舞が舞われ、天皇が群臣に宴を賜る儀式を「踏歌の節会」という。この三節会に、騎射や競馬などを行って邪気を払った五月五日の「端午の節会」と、五穀豊穣を神に感謝する十一月の新嘗祭の最終日に行われる「豊明の節会」の二つを合わせて「五節会」という。
一年の邪気を除くといわれる元日の朝に、その年初めて汲む水である「若水」を用意し、その年の福徳をつかさどる神である歳徳神(としとくじん)を迎えるために、元日から十五日までの松の内の間(現在では普通七日まで)、家々の門口に門松を飾って新年の無事を願った。また鏡餅を陰陽に二個重ねて一重として飾り供え、容易に折れない太い箸で餅の入った雑煮を食し、また屠蘇(とそ)の薬を酒の中に入れて、年の若い者から順に歳徳神のいる吉方に向って飲み、悪鬼を払った。
この元旦のときに挿ける花としては、注連の伝の若松を挿ける。「注連の伝」とは注連縄の故事からきたもので、芽出度い花の挿方を未生秘伝としたものである。この「注連の伝」には、正月一日の若松、同二日の伐竹、同三日の梅、一株扱いの万年青の挿け方がある。
注連とは注連縄のことを指し、この縄でもって境界を示し清浄・神聖な場所を区切り、そして神前に不浄なものの侵入を禁ずるようにした縄のことである。三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を左旋にして捻り垂らし、その間々に紙垂(かみしで)を下げて、新年のときなどに門戸や神棚に張るのである。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、再び中に入られないように岩戸に縄を張った。この縄が「尻久米縄」で、注連縄の始まりとされている。正月に、門松とともに戸口に注連飾りを置くのも、家の中に悪霊を入れず、穢れを払い、そして無病息災・家内安全などを祈念してのことである。
注連の伝の若松として、用に陰陽二本、体に陰陽二本、留に陰陽二本、体用の間へ腹籠を一本、合計で七本を三才格で挿ける。体・用・留として、それぞれ挿ける長短二本の若松は、万物の成り立ちがこの陰陽という両気の消長によるものとする意を含んでいる。また、体と用の間に挿ける「腹籠」は、身籠っているもの、また生じるものを示すために、人間の腹の部分にあたる体の真中に挿ける。身籠り、そして五体満足に揃った嬰児(みどりご)が生まれるということは、生成流転し発展していく姿を意味するものである。
この時の松は姿の変りたるものを用いる。つまり、陰陽六本の松が黒松(雄松)であれば腹籠は赤松(雌松)を用い、また陰陽六本の松が赤松であれば腹籠は黒松を用い、それぞれ種類の異なった松を使うのである。もしくは、七本の内で芽の五つ揃った綺麗なのものを一本選んで、葉先をむしり取って緑を綺麗に出し、これを腹籠として他の六本と区別して用いる。いずれにしても、万物は七つ目において変化するという理に立ったものである。
また最後に、奉書で折り鶴を作り、金銀の水引七本を相生結びにして、用の下に金の水引がくるように結ぶ。若松の本数として七、五体生ずる腹籠の五、陰陽の枝で成り立つ天地人、そして体用留の三才格の三、この七五三をもって注連の伝(七五三の伝)とする。三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎を左旋にして捻り垂らし、その間々に紙垂(かみしで)を下げる注連縄(七五三)に通じる扱いのものである。