2k 冬至の花
 「冬至」は「二十四節気」のうちのひとつで、陰が極まって一陽来復する「極陰」の時候である。この「極陰」のときに、はじめて内より「陽」が再び芽生えるといわれている。また「冬至」は「日短きこと至る」を意味し、古代では「冬至」の前後になると太陽の力が弱まり、人間の魂も一時的に仮死する。すなわち、陰極まれば万物みな衰えて、太陽の巡り帰ってくる「一陽来復」によって再びよみがえるものと考えられていた。
 この「冬至」のとき、北半球では、正午における太陽の高度が一年中で最も低くなり、夜が最も長く、日が最も短くなる。現在使われている「太陽暦」では十二月二十二日の頃で、旧暦の「太陰太陽暦」では十一月下弦の頃になる。
 新暦である「太陽暦」は古代エジプトに始まり、旧暦である「太陰太陽暦」は中国で作られた。また「太陰暦」はイスラム諸国で現在でも使われている。「太陰暦」の基準となる月の満ち欠けの周期は二十九日半で、それを一か月として一年を計算すると三百五十四日余りとなり、「太陽暦」に比べて一年が十一日短くなってしまう。よって約三年に一度の割合で一年を十三ヶ月とした。これが旧暦「太陰太陽暦」の閏年である。そして季節とのずれを解消するため、暦と季節との関係がはっきりするように季節の標準を暦に書きこみ、「二十四節気」として気候の推移を表した。
 「二十四節気」のうちで、立春から始まる奇数目、すなわち「立春、啓蟄、清明、立夏、芒種、小暑、立秋、白露、寒露、立冬、大雪、小寒」を『節』といい、季節の指標とされた。また、雨水から始まる偶数目、すなわち「雨水、春分、穀雨、小満、夏至、大暑、処暑、秋分、霜降、小雪、冬至、大寒」を『中』といい、これは月名を現すものである。またこの「二十四節気」の中でも、「二分、二至、四立」を『八節』といい、特に重要なものとされた。「二分」は「春分、秋分」を、そして「二至」は「夏至、冬至」を、また「四立」は「立春、立夏、立秋、立冬」をいう。
 この「冬至」のときには、民間の間では冬至南瓜や冬至粥を食べたり、柚子をいれた冬至風呂につかったりして疫鬼を払った。また冬至の月である旧暦十一月中旬の卯の日には、太陽の復活を祝い、豊かな実りを感謝する祭りが行われた。この毎年行なわれる祭りを「新嘗祭」と呼び、新しい天皇が即位された際に行なう一代一回限りの大祭りを「大嘗祭」としている。古来より日本人は、米や酒などのものより、生あるものに至るまで、万物の全ては自然の一部であるとし、このような自然に感謝する祭りを行ってきた。
 この「冬至」のときの花としては、先ず梅を挿けて、これにフキノトウ等の実物を添える。冬至の頃に咲く梅を冬至梅という。一陽来復するときであるとされている「冬至」の時候に、これにふさわしい花として梅を主体にして挿けるのである。
 また実物は、その外は「陰」であって、実の内は「陽」である。実物は「陰」の中に「陽」を含ませている「陰中陽」のものであるといえる。実物の扱いとして挿花百錬では「実物を花として取り扱うときは表裏、内外、陰陽和合を備えて挿花とする。私を用いず、自然にまかすを以って当流の伝とする」と、実の中が自然に現れているような風雅のあるものを選んで挿けるものとしている。ただ、この「冬至」のときに扱う実としては「陰陽和合」ではなく、「陰」の気の中にようやく「陽」の気が生じた「極陰」「陰中陽」の風情でもって挿ける。陰が極まってようやく陽が芽生える、一陽来復するときとされている「冬至の時候」をここに現して挿けるのである。