7 三菅筒
一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ずという。これは「太極」が陰と陽という「両儀」を生じ、そしてこの「両儀」が天地人の「三才」を生じ、さらにこの「三才」が万物を生ずるという未生の理念を現したものである。太極はものの本質つまり「体」であり、また両儀はその作用する働き「用」であり、そして三才はその形相「相」である。花を「体用相応」した姿に置き換えて、未生という真なるものを感じ取ることにこそ、未生挿花の真意があるといえる。筒を三管用いて挿ける三菅筒には、この未生の真理を現す「太極」「両儀」「三才」「左旋」「右旋」という置き方がある。以下にその意味するところを述べるものとする。
先ず「太極」の置き方は、天地・陰陽が分かれる以前(父母未生以前)の宇宙の根源的なものを現すものである。そのため、三管筒を正面から見て一本の筒に見えるように一直線に並べて置く。さらに花の挿け方も太極の理念から、それぞれの筒の花が一に帰する様な心持ちでもって挿ける。すなわち、花の種類など全体に一体感をもたせて挿けるのである。@の筒に小さく立姿を、Aの筒に大きく真の立姿を、そしてBの筒に横姿と、全体にまとまった姿に挿けあげる。また、@の筒に横姿で内用の用を、Aの筒に立姿で内用の体を、そしてBの筒に横姿で内用の前留を挿けて、この三管の花全体で円相体である内用(太極・太陽の挿け方)の姿でもって、万物の根源を現すこともある。
次に「両儀」の置き方は、宇宙の根源である太極から、陰と陽という二元対立の世界に分かれた相対的な両儀の状態を現すものである。天地が並び立つように@天A地の筒を間を空けて並べて、その前にB人の筒を隙間を空けることなく、少し重なるようにして置く。すなわち、Bの人の筒は未だ生じていない状態(未生)を現している。この花の挿け方としては、@の天の筒には力強い陽性の立姿を、Aの地の筒には柔らかい陰性の横姿を、そしてBの人の筒には未だ生じていない未生を現すため花は挿けずに水だけを張っておく。Bの人の筒に花を使う場合は、「陰陽未分」を現すために、主位とも客位とも区別のつかないような「未生の花」を挿けるものである。この「両儀」の置き方にするときは、出来れば花の種類を二種類とすることが望ましい。なお「両儀」には主位・客位の置き方がある。
「三才」の置き方は、天地人という三才を現したものである。太極(根源)は両儀(天地・陰陽)に、そして三才(天地人・陰陽和合)へと変化していく。人は天地・陰陽の和合によって生じ、よってこの天地人という「三才」は現在の宇宙の完成された姿といえる。@天A地の筒を間を空けずに並べ、そしてその前にB人の筒を置く。このときの花の挿け方としては、陰陽消長の理を現すため、@天の陽の筒には陰の横姿の花を挿け、A地の陰の筒には陽の立姿の花を挿ける。そしてB人の筒には、万物の多様な相を現すために、立姿や横姿と多様に変化させて挿ける。一例としては、「山里水」の心でもって、@天の筒に木物を、A地の筒に草物を、Bの筒に水物を挿けたりと、とにかく変化をつけて挿けるものである。なお、この「三才」には主位・客位の置き方がある。
「左旋」「右旋」の置き方は活動を現す。太極・両儀・三才という宇宙万物の本質に対し、左旋・右旋というものはその活動の姿を現したものである。現在の西洋的な見方での右回りは、東洋で捉えると「左旋」であり、いっぽうで左回りは東洋で捉えると「右旋」である。この「左旋」「右旋」は、@天の筒からA地の筒B人の筒へと、それぞれ左旋・右旋させて置くのである。本質を表す筒が左旋(客位・陽性)であれば、現象を表す花は右旋(主位・陰性)に挿ける。この場合、右旋に挿ける主位の花というのは、三つのうちで主となる@天の筒に挿ける花が主位であり、主位の花が全体において過半数を占めることをいう。いっぽう客位の花とは、主となる@天の筒に挿ける花が客位であり、客位の花が全体において過半数を占めることをいう。なお@には横姿を、A・Bには立姿を挿け、さらに万物活動の姿を表現するのに動静・強弱と変化をもって挿けるものである。
以上、三管には「太極」「両儀」「三才」「左旋」「右旋」という置き方があるが、この原則(守)の応用として「飛留」の置き方などがあり、さらに多様に変化させて用いても構わない。